世の中には「他人を手助けするのが三度の飯より好き」という奇特な人がいます。
俗にいう「お節介ばあさん」みたいな人たちです。

彼らは人なつこく、他人のための助力や気遣いを惜しまず、一見すると、非常に魅力的ですばらしい人物に見えます。

しかし、いつも周りの人の役に立とうと努力しているにも関わらず、こうしたタイプは案外周りの人に好かれないものです。

なぜでしょうか。

それは、彼らがある種の「めんどくさがり」だからです。



親切が真に喜ばれるものとなるには、一定の条件を満たす必要があります。
  1. 自分のできることを、本当に必要としている人を見つけ出し、その人に親切を行う
  2. 身近にいる人が現在必要としているものを見極め、その意向にそった親切を提供する
上記のどちらかを満たせば、それは本当の親切となりうるのですが……
「親切な人」にとって、これは案外難しいことなのです。

彼らはいつもいつも親切を提供したくてうずうずしていますから、相手の心情などをくみ取る余裕などありません。

また、「自分のできること」という限られたサービスを必要とする人を、会社でもない一個人がそうホイホイ見つけられるはずありません。

したがって、彼らの「親切」は、当然の流れとして……彼らの身近な人へ、無差別に投下されます。



厄介なことに、彼らの頭は「積極的に、誰かに何かをする」ということで一杯です。

そのため、相手が「放っておいてくれること」を心の底から切望していたとしても、彼らは「何もしない」という選択肢を選べません。

相手が望んでいようがいまいが、自分は親切をしたいのだから……そして、それは「善意」から出たものなのだから……つべこべ言わず、どんなものでもありがたく受け取れというわけです。



また、彼らには「相手の意向に合わせて自らのサービスをチューニングする」という発想が欠けていることが多いです。

ここで、「親切な人」である花子さんがものすごくコーヒーを淹れるのが上手だとしましょう。彼氏の太郎さんは根っからの紅茶党で、「コーヒーを飲むぐらいならカビくさい水道水のほうがマシ」という信念の持ち主とします。

あるとき、二人が部屋でくつろいでいると、花子さんが「今日は暑いわね」と言いました。
太郎さんは「そうだね」と言いました。

すると花子さんは突然立ち上がり、キッチンに向かって何やらはりきった様子でコーヒーメーカーを出してきたではありませんか!

太郎さんはあわてて「ぼくは紅茶党だから、コーヒーは飲まないよ」と言いました。

花子さんは鼻歌混じりで
「大丈夫大丈夫、一人分淹れるのも二人分淹れるのも大して変わらないから」

「いや、だからコーヒーはいらないって」

「えー、どうして飲まないの? だってこのコーヒー、すんごく高級品なのよ」

「だったらなおさらいいよ。せっかくの豆なんだから、味の分かる君が飲むべきだよ」

「遠慮しなくてもいいわよ。これ、すっごく高かったんだけど……大事な人には、おいしいものを飲ませてあげたいから」

「だから、コーヒーは飲みたくないんだって……」

結局、太郎さんは花子さんのコーヒーを飲まされることになりました。

しかし、いくら恋人お手製でも、最高品質の豆を使っていても、苦手なコーヒーはやっぱり美味しくありません。太郎さんが思ったような反応を返さないので、花子さんは怒りだしてしまいました。

これが1回こっきりの出来事なら、ほほえましい恋人たちの痴話ゲンカですむでしょう。

しかし、もしこのやりとりが、花子さんの家に行くたびにリピートされるならどうでしょう。太郎さんとしては「もう部屋に行くのはやめよう」と決意せざるをえません。



このように、悪い意味で「親切な人」とおつき合いすると、
なんとなく重苦しい疲れが残り、ひどいときには生理的な嫌悪感すら抱くようになります。


そして、本人が自分の行いを
「純粋に相手のことを思って、善意からした、正しいこと」だと信じている以上……。

「親切」によって苦痛を受けた場合には、何も言わずそっと立ち去るのが無難なのです。